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リレー日記

月日が過ぎ去っても「当日です」と言わなければいけないという気にさせる、かの名キャップはやはりすごいのだ。

投稿日時:2014/09/14(日) 00:03

やってきましたねこの日が。
老害1号、べんちゃニキこと笠井です。

今までの苦しい練習は全て、この時のためにあります。
試合に負けてしまえば、それは全て無駄です。
頑張って練習したからそれでいい。
違います。
勝つために練習しているからには、勝たなければなりません。
勝ちましょう。

おそらく僕らは実力的に、目標である海洋にまだ及びません。
練習の度に、試合の度に成長しましょう。
出来なかったことをどんどんできることに変えていきましょう。

試合を前にあまりふざけたことが思い浮かばないので、とても短いですが僕のリレー日記はここで終わります。

次ですが、エジプトからシーズンへのエールを届けてもらうことにしましょう。

追記
素晴らしい文章を発見したので、転記します。
http://www.geocities.jp/edogawahsrugbyob/doss2.html

現役ラガーメンに捧ぐ2
 自陣ゴール前、どこからともなく聞こえてくる“ワセダ耐えろ”同士の声が今も時々耳に響いてきます。早明戦前夜、寮の一室で自らの太股に塗るモビラートの臭い。早明決戦まであと13日、勝ちたいという欲望が祈りにかわり、そして勝敗はどうでもよくなっていったあの頃。自分の身体さえもコントロールできない人間の矮小さを知り、四年間駆け抜けてきた自分の全てを燃やし尽くせば、それでいいんだと。あの80分間に全てを捨てさせて下さい、と神に祈り続けた日々、そして太股にモビラートを塗り込みながら“よくぞここまで大きなけがもせず耐え抜いてきてくれた”と自分で自分の太股がいとおしく、“よくぞこの丈夫な身体を授けてくれました”と父に母に感謝の気持ちでいっぱいだた、あの頃。最後には感謝にたどり着いた前夜のことを思い出します。そして山奥にたたずむ湖のように、澄み切った一点の欲もない、闘志と緊張の中にも、何か清々しい気持ちで国立へむかった日の事を思い出しました。
 現役諸君に問いたい。同じ大学生でも、デカくて強い相手には、かなわないと思っている部員がいるかどうか。その結論がYESであるなら、ワセダではラグビーをやめた方がいい。秋も深まれば、ほとんどがワセダよりデカい相手と闘うのである。ここ一番の大勝負、試合を決する土壇場で腹の底でかなわないと思っている人間が、その修羅場を乗り越えて克てるわけがない。その人間の本質が理論的に分析して、勝てないと思うのなら、絶対に勝てない。最初から泣くのはわかっている。中途半端に苦しむだけ無駄だ。二度とこない青春のかけがえのない四年間の全てを賭け残ったものは、ただの肩書きと、少し足が速くなったことと、パスやキックがうまくなったことくらいだ。技術的なこと以外、本物は何も得られない。ワセダラグビーの本質とは何であろうか。それは相手がデカかろうが、ジャパンだろうが、全生命を賭けて立ち向かっていく、その姿勢にあると思う。相手が強ければ強いほど燃えるのである。早稲田の創始者大隈重信総長の在野精神に裏付けられたこのすばらしい校風は時代を超え、継承していく義務が、ワセダの学生にはある。ここにワセダという大学の存在意義があるのだ。大学は今、そのidentityを問われている。“荒ぶる”、“北風”は強い相手、高い目標に挑戦し、自己を高めることによって、あの歌はある。デカくて、素質のある人間だけをかき集めて、小さいやつを相手にモールでグリグリやって楽勝できるのであれば部歌は“南風”でいいし、ハワイの南風では気合いが入らないだろう。そしてそれでは、人間は磨かれないのである。デカいのが突進してきて、きた!(まずい)と思った瞬間に、心と体のベクトルは相手に向かうのではなく、そのスピードとパワーは上に抜けてしまい、後手に回ってしまうのである。きたのを見てからお思い直して覚悟を決めたのではもう遅いのだ。この一瞬は実に大きい。勝負事の鉄則は先ず機先を制すること。よし!と先に突っかけて向かっていくのと、できれば他のコースにずれてくれと願いながら、しかたなくとびこむのとでは、ラグビーという精神闘争のゲームにおいて、チームの圧力を大きく左右し、勝敗の流れを、決しかねないのである。
 Will-志とは何であろうか。ワセダの部員誰に聞いても、“赤黒、日本一”と答えるのわかっている。しかし、心の片隅に少し“でもなれるわけないよな”と思っている自分がいないだろうか。自己の根源がそうささやいているとしたら、まぐれでも日本一になれるわけがない。Will、これが原点だ。何にも揺るがない真の志を持つことによって、その志に励まされ、勇気づけられ、引き寄せられていくのである。
 人間は真の限界である生理的限界よりも、かなり下のレベルに心理的限界を自ら設定し、思いこみ、それを越えると、あきらめたり、倒れたりしている。精神力とは、ハードトレーニングに耐えていれば自然と身に付くものではない。惰性と逃げ腰でノルマを消化することだけに終始していては、人間という生命体が持つ、そしてそのとりまく世界の偉大な力を知ることはできない。もっとも困難と思われることの中に、自ら率先して飛び込み、弱い自分と対話し、闘い、信念とあきらめの狭間に揺れながら、荒波を乗り越えていくことによって、奥底に潜む、真の自己を発見し、輝き出させることができるのである。そしてその原動力の1つは、自分を信じること。肯定的信念を最後まで持ち続けることである。だめだと思った時、“おまえなら、きっとできるよ。”ともう一人の自己にささやき続けるのだ。あと一歩でいい。限界を感じた時、厳密に言えば、諦めきった時、その時に一歩、前に踏み出せるかどうかなのである挫折を知らない完璧な自己を目指すのではない。困難に閉ざされた時、その崖をはい上がっていける自己をラグビーを通して創り上げていくのだ。釈尊は「三定死-左も右も後ろも死である。前に進むことだけが、唯一自分を生かす道である。」と説いた。百歩前進する必要はない。人間は過去も未来も生きられない。今日を精一杯生きればそれでいいのだ。今を一生懸命生きる力をあのグランドで培うのだ。そこで、ボロボロになってもいい。失恋をして、この夜の終わりだ、と、打ちひしがれている時、その時人間は成長するのである。
 ヨガの世界に「座っている10m下に、宝石が埋もれている。」という格言がある。最初から信じない人、1m掘って飽きる人、9m掘って諦める人、それらは皆、何一つ得ることができない。弱い自己を正当化し、何度もやめて楽になろうという誘惑と闘いながら、愚直にも10m穴を掘り続けた人間だけが、真の自己という、宝石を発見し、てにすることができる。我々の生涯も昼と夜が来て、日一日と短くなっていく、“同じチャンスは二度とこない。”
志・信念
ワセダにきて、何をしたいのか、いま、現役諸君の魂に問われている。


我々は早稲田ではありませんが、同じラガーマンです。
 

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