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リレー日記

ぐりとぐら、のぶとあぶ

投稿日時:2017/05/08(月) 22:05

 こんばんは、ウルドゥー語専攻三年の鐙裕樹です。
 最近気温が25度以上の日が続き、夏の訪れを感じます。雲一つない快晴の空を見上げて、時折「あー、鳥になりたい。」と思います。
 そしてここ最近、自分は怪我が多いです。足首の捻挫の癖は、テーピング等で補強して最小限にダメージを防ぐことができているのですが、先日の練習でハムストリングをやってしまいました。お天道さまは見ていたのでしょうか、僕の日々の言動を。違いますね、自分自身の管理不足です。

 三年生になり、いよいよゼミが始まりました。初回の授業で教授が、「ウルドゥー語とヒンディー語の違いってなんなんですか?」という問いを僕たちに投げかけました。確かに、入学した当時から先輩方から「ウルドゥー語とヒンディー語って、口語レベルでは同じなんだよ!」と言われ続け、その事実とされていること自体に疑問を呈することはなかったなあと気づかされました。はたして二つの言語の違いってなんなんですかね。例えば僕が森川に「今日は元気かい?」とウルドゥー語で質問したら、森川はヒンディー語で不自由なく「はい」と答えるでしょうね。元気かどうかは知りませんが。二つの言語の違いは、両言語を差別する際に強調された文字であるとよく聞きますが、今インドではウルドゥー語をアラビア文字ではなくデーヴァナーガリー文字で書くこともあるそうで、もはや何をもって異なるといえるのか、わかりません。答えなんてあるのでしょうか、いやきっと正しい答えなんてものはないと思います。答えがないとしたら、異なるという主張を支える理由が何であるかが大切なのかなあとふと考えてしまいました。
 ラグビーも、自分の目で目の前を見て、即時に自分で下した判断をプレーにして実行するときもあると思います。そのプレーが成功しようが失敗しようが、そのプレーをしようとした自分の理由が大事だと思います。確かにチーム競技ではあるけれど、自分自身の判断でプレーを選択できるということは、ラグビーの面白みの一つではないでしょうか。野球などとは違います。

 それでは、周平のフリに答えたいと思います。
 ラグビーをやっていなかったら、どのような生活をしているのだろうかという問でしたね。恐らく僕は、スポーツはやっていなかったと思います。中学や高校のとき、周りの男子生徒は体育の時間になると大いに喜んで体育館に向かっていました。それとは対称に僕は、「放課後部活があるのになぜ今運動するの?」「汗かいたら処理がめんどくさい。」といった、冷め切った男でした。夏に体育館でバスケットボールなんてした日には大事件です。秋田の学校は、クラスに冷房がありません。なので汗がどばどば流れ、ひたすらに下敷きで仰ぐ哀れな姿が容易に想像できるわけです。体育、恐ろしい。教室でみんなで映画でも観ましょうよ、闇金ウシジマ君とかさ。
 もしかしたら、劇団系のサークルに入ってたかもしれません。こう思い始めたのは去年からなのですが、そのきっかけは外語祭における語劇でした。まず初めに結論を言うと、語劇は非常に楽しかったです。僕らウルドゥー語専攻は前半と後半で主演の人を分け、僕は前半の方の主演を演じました。何が楽しかったのかというと、照明で照らされている自分の演技を、目の前にいる観客全員がみていることに大きな喜びと興奮を感じたことです。そして何より演技をするということは、普段の鐙裕樹という人間ではない、別の人間になるということでもあります。演技をしている間、自分は別の人間に変身するかと思うと、楽しそうな予感がしませんか?非日常を味わえます。
 周平がフリの中で、ドルオタは禁止だと言っていましたが、Perfumeはアイドルではなくアーティストと解釈しているので問題はありません。日々のPerume活動は変わらず続いていくことでしょう。

 では、せいほうさんにリレー日記をバトンタッチします。
 せいほうさんが今まで生きてきた中で、一番大変な思いをした人間関係でのトラブルを教えてください。お願いします。
 国公立大会一回戦、VS東大まで一週間を切りました。いい準備をしましょう。それでは、خداحافظ
 

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